本能に逆らうことほど美徳とされる。がっついて飯を食ったら品がないと窘められ、怒りの感情をむき出しにすれば野蛮と言われる。
その意味で、品という美徳の極地には人形がある。人形は本能にまさに逆らっており、究極的に静だ。人形は飯を食わないし糞をしない。空腹で機嫌が悪くなることもなければ、怒ることも嫉妬することもない。
美徳を品と仮定してをつきつめた時、我々は人形になりたいと思うはずだ。
(先に断っておくと、僕は球体人形を眺める趣味がある。人形文化を愛している。その上で、それを今から否定する。)
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上述に矛盾するようだが、我々が「美しくありたい」と感じるとき、それは少なからず対象が人形ではなく、動的なものであるだろう。
腹筋の割れた自分。肌ツヤの綺麗な自分。理想の髪型をした自分。大きな目をした自分。
あるいはこれが可視化されていなくても構わない。悠然とした振る舞い。落ち着いた喋り方。動じない心。いつか画面越しに、あるいはどこかで見掛けて憧れたものは、果たして全くの静であっただろうか。
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人形を表現する際に「今にも動き出しそうな」という文が当てられることが多く、それの異常性を示すときに用いられる。
どれだけ静的で美しくあっても"今にも動き出しそうな"気迫がなければそれはただのよく出来た偽物でしかない。
絵には絵の、音には音の、文字には文字の、そして人形には人形の、それぞれでしか表し得ない純粋な領域がある。
名画に受けた感動と全く同じ感動を名曲から得ることはなく、それらは互いに然りである。
しかしそれは、全てが静的でありながらも限りなく動的であるからこそ「表現」となるのだ。
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音樂は形而下の概念を免れていると言われる。ラブソングを歌う時、つまらない日常のすれ違いや日々の具体的幸せはカットされる。ウンコしながら告白のセリフを考えているシーンを描写しない。
(物語には偶然性を許容する余白がないからだ。
創作されたものは、全て必然性によって成り立つ。絵画に意味の無いものは描かれない。意味を持たない会話は推敲される。過度な装飾は外観を損なう。
創作されたものは、不完全なものを完全であることを求め、造り手によって切削された姿である。言い換えれば、血が通っているのだ。「生」と「生」の交流を、限りなく偶然性を省いて描くべき要素だけを出力したものが創作である。
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さて、人形の話に立返ろう。
人形、中でも球体人形を愛する者の中にはホワイトスキンといって、真っ白な肌の人形を自ら進んでオーダーする層が存在する。球体の関節にも真っ白な肌にも「余白」はない。それは完成された美しさである。
加点も減点もできない、他者に干渉されない、完結の美である。以下に掘り下げる。
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生を模したものを見る時、我々はそこに欠点を見出そうとする目がある。
「このパーツの出来はあまり良くない」「この表情には問題がある」「この姿勢は違和感がある」というように批評する。
しかし、真っ白な球体人形を評価する時、私たちは「パーツの出来」「姿勢の違和感」「表情の問題」等をあげつらうだろうか?全ての違和感(即ち、見る側が欠点だと感じるもの)
は、それの比較対象が生であるがゆえに生まれる。
美少女フィギュアがさながらゾンビのような生体が取り得ない姿勢をとっているとき、我々はそれがおかしいと感じる。侮辱していると思う。嫌な気持ちになる。
しかし球体人形が同じ姿勢をとった時、それは違和感でなくある種の納得を生じるだろう。
人形は一というよりも球体人形は、その他芸術と一線を画す表現形態だと言える。
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生きた人間の美しさは色気と表現できる。我々が憧れるのは色気である。色気を獲得したいと思っている。
死んだ人間の美しさはなんと表現すれば良いのだろう。我々はそれに憧れないし、獲得したいとも思わない。ただそれが完成された美しさを持っていること、所有欲を掻き立てるであろうことには一定の賛同を得られると確信する。
エロスとタナトス。色気、即ちエロスがある限りタナトス、即ち死の魅力は過ぎ去ることがない。
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死体は条理に沿っている。死体は減点され得ない、完成された美を持っている。死体をずっと眺めていたいと思う。
それはまさに、"品"の極地にあるからだ。球体人形をずっと見ていると、頭の奥が痺れるような、強い眠気に襲われているような、多幸感を覚える。
僕たちがくだらない偶然性に振り回されているとき(怒りをむき出しにして野蛮と眉を顰められたり、本能に沿った行動を嘲笑されたりしているとき)にも、球体人形は何にも変わらない。
踏みつけて、殴りつけて、叩きつけて壊そうにも、球体人形は最期の瞬間まで笑顔のままだ。血の通った人形には表現し得ない美である。
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しかしそれでも、僕たちは球体人形に憧れない。球体人形になろうとしない。死のために死のうとしていない。自分の持つ色気の可能性に憧れている。
それは、我々が本能的に、生きようとしているからだ。減点の不安より加点への期待が上回っているのだ。
死、恐怖、悲恋と、負の感情を描く創作は多い。しかし、それらは「負を描くために負を描いている」のではない。
「負を描くことで、生を強調するため」に描かれている。
それはさながら、舞台のスポットライトによく似ている。ヒロインを照らす一筋の光のために、舞台の照明は全て落とされる。
生の美しさは常に減点の恐怖と戦わなくてはならない。また、その美しさの成立に不要なものも多い。理屈の上では切り捨てた方が多いような性格(性質)もあるだろう。
しかしその上で、減点の上で、我々は色気を求め続ける。
牛溲馬勃亦また必ずしも『きたなき』の一語を以もって排し去るを得んや。
そういうところが、人を美しくたらしめていると思う。