2026/07/24-なのだわ!

期待した/想定できる幸運は嬉しいけど、考えてもいなかった幸運にはむしろ戸惑いが勝つと思う。

 

自販機でジュースを買う。当たりが出る。嬉しい。わたしたちは、コインを入れてボタンを押す時に心のどこかで「あたれーっ!」なんて願っている。

 

零度が当たれば勝ち。当たって勝利。嬉しい。当てるために採用しているのだから。

つららで怯ませて勝利。嬉しい。命中不安を受け入れているのは"それ"があるからだ。

 

暇だなーで押した3連キンシ。成功。降参。相手はこっちの裏が見えていないため、不利であったかどうかはわかっていない。フクザツ。別にそこまでは望んでなかったから。

 

なんて、クローネの作った盾からクローネが出てきて思ったりしてた。そんな低い確率考えてもないからびっくりしちゃうよね。

2026/05/29-Don't say lazy

・光を主役にしたいなら、暗闇を舞台にする。何かを描きたいなら、むしろそれ以外を克明にすべきだろう。

・苦しい時/悩んでいる時、純粋な「頑張れ!」にはなんだか反発心が芽生えてしまう。辛い時には、発破でも正論でも応援でもなくて、共感や無関心が欲しいことだって少なくない。

・僕は(かなり)そういうことの多い人間なので、太宰やamazarashiや押見修造が大好きだ。嫌なこと辛いこと苦しいこと、全てないまぜに露悪的に、傷口に塩を塗ってかえって癒される。

・真っ白なキャンバスをほとんど黒に塗りつぶして、僅かに白が残った。穿った見方をすれば、「白を描いた」とも言える。太陽になれなければ月になればいい。

・自分は根暗でネガティブ思考だけど、そういう人間が必要になる夜だってあると思う。大事なのは自分認めてくこと、自分を許せなきゃ人も許せない。

2026/05/21-可能力

・雨は嫌いだけど、梅雨は好き。「私」と書いて矛盾。

・梅雨には、梅雨にしかない香りがある。歩いていて最も楽しい季節だと思う。梅雨の夜は涼しくて、それでいてどこか包まれるような暖かさがある。

 

・能力というものはつまるところ、「その分野に関して自信を持って行動できる力」のことだと思う。例えば「英語ができる」と言った時、それは「自信を持って英語で会話ができる」であったり、「英語的な表現をすることを厭わない」であったりするだろう。

・あるいは例えば「プレゼンが得意」と言った時。自信満々に流れるように説明されては、なんだかそれが本当のような気がしてしまうというのはよくあることだと思う。実際にストリクトに、「○○は加点/××は減点」として点数化して表示した時、彼のプレゼンは高い点数ではないかもしれない。しかし、問題は点数ではない。「行動できるかどうか」に尽きる。

 

・できないことを把握することも大事だけれど、できることに自信を持つことも必要だと思う。できる、と人から言われたことなら尚更、ちょっと過剰なくらいに持ってしまっていい。

・「できること」が、「可能」で留まってしまうのは勿体ないから。"能力"として扱ってみる、そういうちょっとした試みで、自分のことをもっと好きになれるのかもしれない。

2026/5/5

・電車で過呼吸になって下車。気持ちが悪い。今回はよりタチが悪かった。自他境界が曖昧になる感覚。

・仲間同士でじゃれあって、少年が頭をはたかれていた。途端、自分が殴られたように感じて声が出た。

・床に落ちていたペットボトルが踏まれた。自分が踏まれたように感じて、瞬時にそうでないことを理解して、出力が体内に反転して、どうしようもなく気持ち悪かった。

・全ての瞳がこちらを見ているように感じた。僕が目をあげると、一斉に目を逸らした。指を刺されている。写真を撮られている。そんなはずないことわかっているのに、妄想は留まることを知らず、不信が募る。

・醜男が窓の外を眺めていた。映りこんだ顔を見て、なんだか絶望した。僕は彼ではないのに、なんだか目の前が真っ暗になるような気持ちになった。

・腰の曲がったお婆さんが、人混みをよたよたと潜り抜けていく。これにもまた、閉塞的な感情を覚えた。僕はあのおばあさんではないのに。

・歩いて、壁や電柱に何度もぶつかって涙が出た。自分の身体の輪郭がはっきりしている時とはっきりしていない時がある。この文章だって、何度も、何度も書き直している。

 

・トイレで吐いた。口を開けた時、排泄物が口の中に飛び込んでくるような感覚があり、吐き気が実際の嘔吐へと変わるのに時間を要しなかった。

・視界の中で、動く全てのものを煩わしく感じた。止まって欲しかった。"誰でもよかった"通り魔なんて、案外こんな気持ちなのかもしれないと思った。

蜂蜜・コピルアク・カブトガニ

・ふと足下を向いた時に、足元の葉を見て「蛙か、虫か」と思い込み、慌てて足をどける。
大抵の場合それらはただの葉っぱで、その度に、生物の進化の美しさに想いを馳せることになる。


・保護色はとても理にかなっているし、その精度は高い。それは広く知られているだろう。
けれど、日常に住まう生物は特に(少なくとも我々一般人の間では)注目されることも、議論されることも、形容詞に使われることもない。カエルの形容詞は保護色よりもむしろ鳴き声を用いて行われる。


・そういう、世界の「当たり前」に接する度に自分の悩みや辛さが矮小に思えて、楽になる。

 


・共用スペースのゴミ箱から中身が溢れ、床に散らばっている。気分が悪いので拾い上げて、中身を圧縮して捨てる。再び訪れた時、床に散らばるゴミの数はよりひどくなっている。なんだか、クラっとしてしまった。

・気持ち悪くてやっているだけだ。見返りを求めているわけではないし、別にやる必要だってない。自己満足に過ぎない。
・そもそもの話、袋ごとゴミ捨て場に持っていけば解決する話なのだ。それをしないのは、単に面倒くさがっているからだ。そうしていない時点で、中身が溢れ出すことなんてわかっていたはずだ。
・なのに、なんだか気分が良くない。自分は、求められてもいないことを、自分の気持ちよさのためにしただけだ。その上で、抜本的な解決を試みようともしなかった。予想される未来がそのままに起きて他責するのは、全く整合性がない。わかってはいる。いるけれど。

 

・「他人に期待するな」なんて、手垢に塗れていて信頼性がなく、言われなくてもわかっていると感じる。しかし振り返ってみると、結局他人に期待している。
・人と話して、相手の言葉の枝葉にストレスを感じる。思考に苛立ちを覚える。不安を抑えきれない。これらは全て、「他人は自分に優しいものだ、他人は自分と同じ思考は"できる"ものだ」という「期待」があるからこそ引き起こされる感情群である。

 

・「無償の優しさ」は持つべきでない。無償の優しさを持つ限り、人から施されることを当然だと思ってしまうからだ。
・正確に言うなら、「無償の優しさ」は「自分の満足のため」にやっているという自覚を持つべきだ。"優しさ"と認識していると、気持ちが返ってこないことに辛くなってしまうから。

・最近、体調が悪い。タスクを抱え、メンタルも良くない。今日も昼休憩で電柱にぶつかって昼食をこぼしてしまったし、何もないところで転んで擦り傷を作った。頭痛もひどいし、常に朝日が怖い。人の言っている言葉や、書いてある文章の意味がわからない。明日に来て欲しくない。人が怖い。


・けれど、こういう時こそ、発見が多い。文学は、苦悩の中にある人が自分の肩の荷を下ろすつもりで吐き出すものだ、とはよく言ったものだと思う。

・蜂蜜、コピ・ルアク、カブトガニ。もう少しだけ、今日を生きてみる。

「発見」のために生きるということ

・古びた小さな街灯が、背の高い枯れかけた桜の木を淡く照らしていた。とても美しく感じた。

 

・夜道を照らすには心許ない光量と、道すがら眺めるには高すぎる桜の木。それぞれでは実用性も風情もない。それらが、夜になると叙情的な雰囲気を醸し出している。こういう"発見"をするたびに、生きていてよかった、とふと思う。


・生きていてよかった。ここ数年、そう思うことが多くなった。昔は消えてしまいたかった。

 

・何年も前。けれど、克明に覚えている。

・車が飛び出してきた。突然だった。覚えた感情は、"安堵"だった。

・水泳中に息継ぎをした時のような感覚だった。けれど、乱暴な音を立てて車は止まった。僕は歩いた。横断歩道を渡りきってから、どこか納得したような気持ちだった。


・つまるところ、ここらで終わってしまいたいみたいだった。自ら消える勇気はないしその動機もないけれど、終わってしまうなら仕方ないな、という心づもりのようだった。未必の破滅願望。こういう心持ちは、10代においては少なからずの人間が抱くことを、僕は観測している。

 

・あれから数年。車が止まってくれたことを感謝している。「生きていてよかった」はどうやら、歳を重ねるごとに加速度的に増えていくものみたいだ。思春期の終わりが加速度的であることと似ていると思う。


・例えば、ワサビが食べられるようになった。例えば、好きな曲が増えた。例えば、叙情的な日常を発見した。例えば、価値観を揺るがすような出会いがあった。「発見」は常にことの大小を問わず、自分を喜ばせてくれる。

 

・つまるところ、生きていればなんとかなる、と思っている。苦しい夜も辛い夜も、涙を堪えきれない時も逃げ出したい時もある。けれど生きてさえいれば、いつかきっと「生きていてよかった」と思える日が来ると確信するに至った。

・自分のような若造ですらそう思うのだから、歳を重ねるごとにその感情は増えていくのだろう。「発見」のために生きていきたいと思う。

「発見」のために生きるということ

・古びた小さな街灯が、背の高い枯れかけた桜の木を淡く照らしていた。みすぼらしく、美しいと感じた。
・夜道を照らすには心許ない光量と、道すがら眺めるには高すぎる桜の木。それぞれでは実用性も風情もない。それらが、夜になると叙情的な雰囲気を醸し出している。こういう"発見"をするたびに、生きていてよかった、とふと思う。
・生きていてよかった。ここ数年、そう思うことが多くなった。昔は消えてしまいたかった。

・何年も前。けれど、克明に覚えている。信号を待ちの間に車が飛び出してきたとき。安心した。水泳中に息継ぎをした時のような感覚だった。けれど、乱暴な音を立てて車は止まった。僕は歩いた。横断歩道を渡りきってから、どこか納得したような気持ちだった。
・つまるところ、ここらで終わってしまいたいみたいだった。自ら消える勇気はないしその動機もないけれど、終わってしまうなら仕方ないな、という心づもりのようだった。未必の破滅願望。こういう心持ちは、10代においては少なからずの人間が抱くことを、僕は観測している。

・あれから数年。車が止まってくれたことを感謝している。「生きていてよかった」はどうやら、歳を重ねるごとに加速度的に増えていくものみたいだ。思春期の終わりが加速度的であることと似ていると思う。
・例えば、ワサビが食べられるようになった。例えば、好きな曲が増えた。例えば、叙情的な日常を発見した。例えば、価値観を揺るがすような出会いがあった。「発見」は常にことの大小を問わず、自分を喜ばせてくれる。

・つまるところ、生きていればなんとかなる、と思っている。苦しい夜も辛い夜も、涙を堪えきれない時も逃げ出したい時もある。けれど生きてさえいれば、いつかきっと「生きていてよかった」と思える日が来ると確信するに至った。

・自分のような若造ですらそう思うのだから、歳を重ねるごとにその感情は増えていくのだろう。「発見」のために生きていきたいと思う。