・ふと足下を向いた時に、足元の葉を見て「蛙か、虫か」と思い込み、慌てて足をどける。
大抵の場合それらはただの葉っぱで、その度に、生物の進化の美しさに想いを馳せることになる。
・保護色はとても理にかなっているし、その精度は高い。それは広く知られているだろう。
けれど、日常に住まう生物は特に(少なくとも我々一般人の間では)注目されることも、議論されることも、形容詞に使われることもない。カエルの形容詞は保護色よりもむしろ鳴き声を用いて行われる。
・そういう、世界の「当たり前」に接する度に自分の悩みや辛さが矮小に思えて、楽になる。
・共用スペースのゴミ箱から中身が溢れ、床に散らばっている。気分が悪いので拾い上げて、中身を圧縮して捨てる。再び訪れた時、床に散らばるゴミの数はよりひどくなっている。なんだか、クラっとしてしまった。
・気持ち悪くてやっているだけだ。見返りを求めているわけではないし、別にやる必要だってない。自己満足に過ぎない。
・そもそもの話、袋ごとゴミ捨て場に持っていけば解決する話なのだ。それをしないのは、単に面倒くさがっているからだ。そうしていない時点で、中身が溢れ出すことなんてわかっていたはずだ。
・なのに、なんだか気分が良くない。自分は、求められてもいないことを、自分の気持ちよさのためにしただけだ。その上で、抜本的な解決を試みようともしなかった。予想される未来がそのままに起きて他責するのは、全く整合性がない。わかってはいる。いるけれど。
・「他人に期待するな」なんて、手垢に塗れていて信頼性がなく、言われなくてもわかっていると感じる。しかし振り返ってみると、結局他人に期待している。
・人と話して、相手の言葉の枝葉にストレスを感じる。思考に苛立ちを覚える。不安を抑えきれない。これらは全て、「他人は自分に優しいものだ、他人は自分と同じ思考は"できる"ものだ」という「期待」があるからこそ引き起こされる感情群である。
・「無償の優しさ」は持つべきでない。無償の優しさを持つ限り、人から施されることを当然だと思ってしまうからだ。
・正確に言うなら、「無償の優しさ」は「自分の満足のため」にやっているという自覚を持つべきだ。"優しさ"と認識していると、気持ちが返ってこないことに辛くなってしまうから。
・最近、体調が悪い。タスクを抱え、メンタルも良くない。今日も昼休憩で電柱にぶつかって昼食をこぼしてしまったし、何もないところで転んで擦り傷を作った。頭痛もひどいし、常に朝日が怖い。人の言っている言葉や、書いてある文章の意味がわからない。明日に来て欲しくない。人が怖い。
・けれど、こういう時こそ、発見が多い。文学は、苦悩の中にある人が自分の肩の荷を下ろすつもりで吐き出すものだ、とはよく言ったものだと思う。
・蜂蜜、コピ・ルアク、カブトガニ。もう少しだけ、今日を生きてみる。