2024/04/24-ホロニカル/ほろ苦る。

ロシア人とのやり取り。

「日本は国ガチャSSRだと思うよ」
「嬉しいね。ロシアは?」
USSRだよ」

笑った。人から聞いた話なんだけれども。

ただ、さらに面白いのはその文脈。むしろこっちが本題。

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この寓話は「国ガチャ」「SSR」「USSR」みたいなスラングと、所謂"寓話調"への理解が前提だ。

だから例えば80歳のおじいちゃんとかに話してもウケないし、寓話の類に全く触れてこなかった人には響かない、と考えられる。つまり、共通知識。ある意味で、接点と置き換えても良い。

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ちょっと飛躍するけど、人と人を繋ぐものは接点だという主張がしたい。学生時代に仲良かった人と社会に出て疎遠になるとか、バイト先で親密だった人とバイト辞めてから全く連絡取らない…なんてよくある例だ。

一期一会という言葉の膾炙具合を見る限り、少なくとも人間の関係が同じ距離で長続きすることは珍しい。だからこそ「何年来の付き合い」なんて言うわけだしね。

 

遠距離恋愛。否定しないけど、続かないってことはよく耳にする。摂理だとは思う。だって、何を話すと言うんだろう?

自分に関わりのないことは、たまに耳にするには面白いけど毎日となると退屈だ。

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人との繋がりが途切れてしまうことを懸念して、無理をして会ったり、会話したりした覚えが何度かある。(あなたもあるかしら?)

 

でもそれって接点がなかったから自然なことだし、別にそこで関わらなくても、「話したい」気分になった時にまた連絡を取ればいい。

時間は距離を遠ざけはするが、関係値を減少させることは無い。と考えるようになっている。

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人生の過程にあるものは成長ではなくて変化だ。前もこの話はした。(2024/04/14-未満。)

だからこそ、自分の考えも前とは異なっているし、これからも異なり続ける。

 

半年前僕は「人を見下して楽になれるならそれでもいい」と主張していた。

けれども今はそれに反対だ。

なぜならそれは対処療法に過ぎないし、その考えは後で余計に辛い思いを齎すことを自分の経験を通して理解したからだ。

 

でも例えば、また人生のどこかで同じような考えに戻ってくるかもしれない。人の思考は振り子のように揺れ続け、変わらないものなんてなかなかない。

 

他人がしている主張を見て、それがかつて自分が棄却した思考であったとしても、容易に切り捨てたり否定的な考えを持つのは賛成できない。いつかの自分より的確な思考をしている可能性だってあるんだ。

 

ただそれでも、今の自分が考えている意見、その事実自体は変わることは無い。

今僕はこう主張する。君はこう主張する。それだけ、残しておくのは悪くないんじゃないか。

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いつかの自分に、もしかしたら遠距離恋愛をしているかもしれない自分に、日記を残す。