2024/08/19-蛙の亡骸についての美的論争。

その日あった"いいこと"をまとめてみることにする。今日は?買い物をした。部屋の掃除。少しだけ勉強もした。読みたい本はまだ積まれている。しかしこれは、明日に回してみよう。電車の中でスマホをいじらず、本を読む。これだけでも幾分か自分のためになるはずだ。ジムには今から行く。俺にハウメニ、これで完璧。

 

やはり人間、外に出なければならない。今日は、まだ誰とも会話をしていない。朝から発した言葉は笑い声だけだ。だから頭が回らない。今、自分が何を言っているかもわからない。しかし、言葉未満の釈然としない感情は、言葉にしてみればなんのことはないものである。

子供が、行き場のない癇癪を処理するために泣きわめく。しかしその内容は我々から見れば取るに足らないようなもの…であるのと同様だ。

 

嫌なことならいくつかあった。しかし、忘れることを試みなければならない。生物として、嫌なことばかり覚えているのは当たり前である。嫌なこと、とはつまり失敗であり、失敗から学び二度を繰り返さぬために、我々の思考能力というものは備わったのだ。

しかしその嫌なことというのもまた、取るに足らないものかもしれない。今は頭が回っていないのだ。ぼうっとしていて、気分が悪い。思考にモヤが掛かっている。言葉が出てこない。自分は定期的に、"そう"なってしまう。

アルジャーノンにおける"彼"の気分である。末期の彼もまた、横溢する叡智の端を握って離すまいと、幾分阿呆になり始めてからしばらく、難しい言葉のみ使っていた。高尚工廠パズル。凸と凹は、噛み合っていない。凹凹である。あるいは、凸凸である。

 

明日は予定をふたつ入れた。それだけで十分な気がする。人生人生人生人生人生。横並びの人生群。出荷される商品みたい。それであっても、地球、凄まじい数の人間である。人様比較して。逃れられぬことばかり。

しかしそれは井の中の蛙が周囲の沼を見渡して自らの不幸を謳うようなものである。

夏の陽射しに充てられて干からびたあのおぞましい死体、いい気がしないのは即ち「リアリティ」である。

我々だいたい炭素と水の有機ユニットであり、あなたも私も、あそこの綺麗なお姉さんも"干からびそうな"老人も、ない混ぜて同じような化合物に過ぎない。死体一歩手前のぶよぶよ、或いはからからの肉体に高潔な魂を挿入することについてはエロスを感じるが、しかしそれもまた、死にそうな蛙にオタマジャクシの脳みそを移植するようなもので、全ては形而下の概念から逃れ得ない。

 

蛙の亡骸について、どちらが不気味に感じるか?干からびて、アスファルト上。或いは綺麗なまま、水分をたっぷり含んで、眼だけ黒を失ってパッタリ。今にも動き出しそう、である。大きく口を開いてわたしを飲み込んでしまうかもしれない。踏み潰して、その死を"確かなもの"にしたくなる。トドメをさしてやるのだ。限りなく生に近い死体、それは不気味である。

しかし、人形の美しさは死体に近しいことにある。火葬場で泣く人がいる。別れを告げてだけにあらず、美しさが失われることを惜しんで、そんな人も目にしない訳では無い。即ち人形的であるということは、たっぷりと水を含んだ、しかしたしかに死んでいる、あの気味の悪さ、やはり殺すべきであるのだ。死体には死体の、生体には生体の領分があるのだ。死体はすべからく、干からびなければならない。我々、煮干しは嬉々として食う。生魚は少し抵抗があるだろう。刺身はあれは、死体ではないからいいのだ。

 

瑞々しい赤ん坊を見ると、限りなく生きているような死体を見せられている気分になり、恐ろしい。赤ん坊は理性を示さない。そのあり方は人間よりむしろ蛙に近い。

黒に彩られた瞳がこちらを認めているのは"生命"を強く感じさせ恐ろしく、大口を開けてわたしを頭から飲み込んでしまうような錯覚を覚える。干からびていればいいのに、と思う。水はなんだか、わたしたちの原初にある黒く深いものを感じさせて、恐ろしくてかなわない。

 

活け花が趣味とは、死体収集癖ということに他ならない。あるいは、花のバリウム漬け。リビングに飾られる、最も普遍的な死体。それが認められるなら僕は眼球のバリウム漬けを飾りたい。人体にとって最も美的な部位は眼球に他ならない。年齢や性別も美しさに関与する。もちろん、幼女の眼球が白眉である。

無論、"飾る"以上は大きいに越したことはない。しかしここで、花言葉を思い出してみる。最も美しい花、スイレン。しかし「滅亡」を意味するために、贈られることはない。そういうことなのだ。付加価値なのである。

 

巨大な眼球がある。血管の配置も大きさもツヤも、見事なものである。

しかしそこで、この眼球はそこら辺の、特になんの変哲もないただの男の臓器であると知らされてみる。すると途端になんだかつまらないもののように思え、ゴミ袋行きである。

矮小な眼球がある。あまり、そそられない。

しかしそこで、この眼球はさる裕福な家庭の由緒正しい血筋、たいへん可愛らしい幼女の眼球であると知らされてみる。すると途端に価値があるもののように思えてくる。愛らしく、愛さねばならぬ、愛されるべき臓器のように思えてきて、蝶よりも花よりも丁寧に扱わねばならぬという使命感がわいてくる。

 

肉体は、その人格をもって「所有者」とされる。赤の他人がその肉体をのみ手に入れたとて、「所有者」とはならない。想起してみると

 

わたしは人形が好きだ。人形は干からびてもおらず、かといって蛙でもない。球体関節人形を買い、それらを保有する者としてあるために、生きてみるか。