【改稿】2024/05/07-お手軽ミーム汚染。

・須らくに、遺伝子は存在する。

そして、言葉はその感染性が強い。

だから、文章を書くとは、読むとは、形而上の生殖行為である。

そういうことで、人は語りたがる。遺伝子を遺すために。

 

・疲れるほど、性欲は強くなるらしい。僕は、肉体にそれが顕れることはなかったが、どうやら、こういう形で顕れた。

 

わけのわからぬ眠気がある。浮遊感に似た、強い恐怖がある。

感じたことの無い眠気で、せめて、とばかりに筆を執った。

 

 

 

 

 

 

・乱筆。文脈はない。

詩から、叙情を取り除いたような形になった。月に向かって吠えてみたい。

 

・裏表のないコインはない。不幸が消え去れば、幸せも後を追うだろう。 

不幸の裏面には必ず幸せが隠れている。それは、やってくるものではなく見出すものだと、考えるようになった。

 

・不屈は美しい。物語に足る。だが、それだけだ。

不屈の先の勝利こそ、人を導く道しるべとなる。 

勝利とは、自分の過去と現在と未来を誇りにできることだと思う。

 

・謝罪は、マイナスのものをゼロに戻すためのものだ。

善意への礼は、謝罪ではなく感謝で返すべきだ。だって、どちらが嬉しいかは、言うまでもない。

 

・諦めきれないから悩みは続き、諦めきれないから希望は続く。

憂鬱とは、凪いだ熱情に他ならない。

つまり、苦悩とは、努力の証明であり、成功とは、証明された努力を表している。

 

 

・アリスはたくさん泣きじゃくり、それから幸せそうに笑いましたとさ。

 

 

 

 

乱文。偽りはない。

物語から、親切を切り取ったような形になった。ヨカナーンの唇はどこだ。

 

・僕の言語障害は、一言で言えば「木を見て森を見ず」のようなものだった。

つまり、ひとつの要素に夢中になり、そこからの連想を続けてしまうため、全体を捉えることが出来ない。

 

森、では無く、木木木木木木木木木木木木木木木木木木茶色茶色緑赤赤赤三原色認知、老人、仏教、のような思考の跳躍をする。

 

・だから、森の絵を見せられて「これを説明しろ」と言われた時などは。

仏教から木まで繰り返し、「木があって」と言い、途中の引っ掛かりを見つけて「それは茶色くて、赤色ではない」と、手探りで時間をかけて答えることが精一杯だった。

 

 

・そんなわけで、孤立した。気持ちが伝えられないので暴れ回り、理解してくれないので泣き叫ぶ。随分手のかかる子供だったので、親には迷惑をかけ続けた。死ぬまで頭が上がらない。

 

・そんな僕を生かしたのは、物語だった。

物語は、常に一本の筋がある。文字をなぞって、導かれるように歩いていくことが出来る。大きな樹だった。

 

途中で、気まぐれにひとつの要素に夢中になったとして、ページを開けばまた物語は続く。

どれだけ枝葉をくっつけても、樹は決して噛みつかない。

そういうわけで、絵本やら、児童書やら童話集やらは今でも強い愛着がある。

 

・問題は、話す相手が居ない事だった。やはり風景とは、伝えたい人がいるから美しさを増す。

今振り返ると、あまりに脈絡も突拍子もなく、何が言いたいのかわけがわからない産物ばかりだった。そりゃ、相手をする人がいるはずもない。

 

・だから僕は、まなちゃんになった。まなちゃんは話を理解してくれた。まなちゃんは何も喋ることは無かったけど、僕は嬉しかった。

まなちゃんは、母と父の機嫌が悪い時も、僕の代わりに機嫌をとってくれた。

僕がまなちゃんになると、ふたりともとても穏やかに、優しくなり、僕は嬉しかった。

 

・イマジナリーフレンドの一種だったのだと思う。タルパ、とも言うらしい。結局、気がついたら居なくなっていた。

長らく思い出すこともなかった。

本当に…ただ、忘れていたとか、そういうわけではなくて、居なくなっていたのだと思う。ありがとう。

 

・つまり、僕にとって物語は「生きるのに必要だった」

 

同じく、音楽が必要な人も、スポーツが必要な人も、絵が必要な人もいるだろう。

それは、あなたをとても魅力的にするものだから、人からどう思われたとしても、大事にして欲しい。と思っている。それを、言いたかった。

 

人は科学を発展させてきた。科学とは、現象を解明し説明をつけることである。

例えば、橋が壊れたとする。何故橋が壊れたかを明らかにすることで、もう壊れない橋を作る。

それが、科学だ。つまり、人間の選好はとても実践的なものであり、必要に駆られてものを好きになる。 

これを、僕の主張の説得力として捧げたい。

 

 

 

擱筆。オチはない。

お洒落童子から、マントを剥ぎ取ったような形になった。モルヒネをおくれ。

 

・つまり、錯覚だからなんだ、と言いたい。

一度きりの人生、という枕詞をよく耳にするが、一度きりだからこそ、どんな使い方にもそれぞれの価値がある。

 

例えば、ケーキをとってみる。

裕福なAくんは、毎日ケーキを食べることが出来る。

貧乏なBくんは、祭事にありつければ僥倖である。

 

このふたりに、10年の時が経った。

さて、鮮明に幸せの記憶が残っているのは、どちらだろうか……と言えば、別にそれは、どちらとも言えない。もちろん、当たり前に、それぞれに価値がある。

 

問題は、幸せな記憶をもって、自分を誇れるか否かにある。

 

・瓢箪からコマ、大いに結構だ。

人は頭だけで恋をするわけじゃない。目で恋をしたり、指先で恋をしたり、耳で恋をしたりする。

それならば、嘘で恋をしたり、嘘に恋をしたり、そういうのも全くおかしくない。

自分。大事なのは、自分。自分の感情。価値も、本質も、意味も、何もいらない。幸せに思うか?誇りに思うか?それだけにある、と、思っている。

 

よろずに通じて、蓋棺事定。また明日。